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【再掲載】小西寛子の緊急提言「批判やまない『新道徳教育』かくありたい(もう一度読みたいアノ過去記事)

2020/03/16号 産経デジタル iRONNA掲載記事アーカイヴ(筆者撮影IMG、コロナ禍の運動会)

「坂道で大きな荷物を抱えて困っていたおじいさんを助けた5人の子供たち。ごほうびにもらった6枚のチョコレート、みんなで分けたら1枚残った。さあ、どうやって分けようか」。読者のみなさんも一緒に考えていただきたい。

      ① 一番重い荷物を運んだA君に

      ② 一番年上のB君に

      ③ 妹がいるCさんに

      ④ チョコが大好きなD君に

      ⑤ みんなで等分に

 この設問は、東京都の各小中学校などで行っている「道徳授業地区公開講座」のワークショップで取り上げられたものだ。この講座は、主に保護者や地域の方々を対象として道徳授業を公開している。ワークショップなどを通じて意見交換を行い、学校・家庭・地域社会が一体となった道徳教育の充実を図るために、東京都教育委員会が平成10年度から実施している取り組みだ。

 道徳の教科化については批判的な意見も多い中、小学校では平成30年度から、中学校では31年度から「特別の教科 道徳」として始まった。深刻なモラル崩壊に歯止めがかかる様子もなく「不寛容社会」と嘆かれる現代、目まぐるしく変化する予測不可能な社会の中で、子供たちにどのような教育が望まれ、どのような未来が託されているのだろうか。

 冒頭の設問だが、皆さんはどれを選んだだろうか? 筆者は、どれも言い分としてアリだよなぁ〜と思いつつ、どれか1つ選べと言われたら、⑤の「みんなで等分」を選んだ。ワークショップの結果は、一番多かったのが⑤。数人が①、③が1人だった。その理由は以下の通りだ。

 一番多かった⑤と回答した理由

     ・平等でよい

     ・経験上、子供たちが一番納得する(学校教諭の意見)

     ・みんなで分けたらおいしい

     ・みんな同じ気持ちで行動したから、みんなで分かちあう

 ①と回答した理由

     ・働いた人に相応の評価をすることで社会の仕組みが理解できる

     ・労働の大きさに応じて差をつけて評価すべき

     ・一番よく働いたA君にはもらう権利がある

 ③と回答した理由

     ・自分たちだけでなく、他の人のことも考えていてよい

 どれも理由としてなるほどぉ〜と思う。もちろん、どれが正解というものはない。およそ40年前にこれらの道徳性を調査したのが、道徳性発達理論の提唱者で心理学者のローレンス・コールバーグで、興味深いことに、国によって選択傾向が違うという。

 ①を最も多く選ぶ国はアメリカ、②は韓国、⑤は北欧などの福祉国家だそうだ。なるほど、これまた概ね納得できる傾向である。アメリカは成果主義、韓国は儒教の影響、福祉国家はみんなで分け合う。うーむ、筆者はこの時点で、道徳教育の多難さにうなだれてしまった。

 1975年生まれの筆者の時代の道徳といえば、善悪の判断や思いやりの心を育てるような物語を読んで、登場人物の気持ちを考えるという感じの授業だったと記憶している。では、「特別の教科」という冠がつけられた道徳科は、いったい今までの道徳と何が違うのだろうか。

 公開授業を参観してみると、テーマとしては、人への思いやりや困難を乗り越える大切さなど、筆者の時代とは変わらない定番の内容だったが、低学年クラスでは、ちょっと変わった作業をしていた。

 生徒に1枚ずつ紙が配られ、感想を書かせるのかと思いきや、紙には空白の吹き出しの付いたイラストが印刷されていて、登場人物になったつもりで気持ちをセリフにして書き出し、子供たちは活発に発表していた。高学年のクラスを覗いてみると、テーマにまつわるストーリーを自分たちの社会に置き換え、グループで議論し、出し合った意見をパネルにまとめ発表するという作業を目にした。

筆者が直接目にした公開授業

 これが、新しい学習指導要領から実践されている「考え、議論する道徳」なのだ。そこには正解も不正解もない。「自己を見つめ、物事を広い視野から多面的・多角的に考え、人間としての生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判断力、心情、実践意欲と態度を育てる(小学校学習指導要領解説より)」ことを目標としている。

 道徳科の成績評価については、達成度などの段階評価は行わず、教諭は、よいところを褒める、励ますなどの文章で評価する。これら道徳科における新しい教育プログラムの理念は、他の教科やあらゆる教育活動においても妥当で、学校生活全般を通して各々の活動を補い、深め合い、育成されることが望まれている。

 では、なぜ道徳を学ぶのか? 自分自身を見つめるというプロセスの重要性は従来から変わりないが、道徳が「教科化」された背景には大きな時代背景があるようだ。

 一つは、グローバリズムという世界的な流れだ。国内外問わず異文化の理解や多種多様な他者との関わり方、グローバルなコミュニケーション能力の育成は極めて重要で、子供たちが自らと向き合い多様な価値観に触れることで、時代に即した「多様性に対する多角的なものの考え方」を身につけることが期待されている。

 もう一つは、深刻な「いじめ問題」がある。2012年に発覚した大津市の中学2年の生徒が犠牲となった痛ましい事件は記憶に新しい。翌年、いじめ防止対策推進法が施行されたものの、今もなお悲痛ないじめ問題は後を絶たない。

 この事件を端に、これまで教育課程上の「領域」であったがゆえに、他の教科に振り替えられ道徳の時間が削られるといった問題を含んでいた道徳の「教科化」という動きが一気に加速した。

 これら背景から、新しい道徳教育というものが急務の課題として検討されたことは十分理解できるが、道徳の教科化については根強い反対意見が多いのも特徴である。

 その理由としては、戦前の教育勅語体制下の「修身」の復活につながるだとか、議論によってむしろ一つの正解へと導き一定の価値観を植え付ける、違う意見を持つことで教室に居づらくなる、いじめを助長するなどの指摘がなされている。

危険と言われる新しい道徳教育!?

 筆者は知らなかったが、NHKの『クローズアップ現代』でも新しい道徳教育を取り上げた番組に大きな反響があったと聞く。新しい道徳教育はそれほどまでに危険なのだろうか。

 確かに、授業の進め方によっては、多数によって形成される価値観だけが切り取られて、結局は排他的、一方的な道徳感や価値観の押しつけになってしまうといった状況は容易に想像できるし、多様性に対応する能力の育成でありながら、人と違う価値観を孤立させる結果を生じないとまでは言えない。

 しかし、筆者が目にした教育現場において、「考え、議論する道徳」自体にそれほど悪い印象はなかった。むしろ、受け身の学習ばかり経験してきた筆者からしてみれば、そういった議論を通じてコミュニケーション能力を育むチャンスが与えられる今の小学生たちをうらやましいとさえ思えた。

 ただ、一方で、指導プログラムのノウハウが未熟で手探りの状態という印象は否めなかった。新しい道徳教育に対応する教職員の育成もまた急務だろう。

 とにかく、子供たちのメンタルを扱う分野なだけに、風当たりも強いのは当然といえば当然だろうが、残業を重ねて真剣に取り組む現場の教職員の方たちの姿にも目を向けてほしいと思う。

 『クローズアップ現代』で露呈された道徳教育の問題点については、取り扱う教材の質(現実感や妥当性など)と議論のプロセスにおけるモラルが問われるべきで、決して「考え・議論する道徳」を否定するものではないと筆者は考える。

 議論というプロセスにおいては、時に衝突、苦悩、葛藤、誤解などがあって当然だと思うし、そういった課程の中で得られた道徳観や異なる価値観の気づきなどは、むしろ人生の宝物となるべく経験に転化して考えていくべきではないだろうか。

 道徳に限らず教育とは常に手探りであり、楽観的で言い方は悪いかもしれないが、試験的な試みを積み重ねていく必要があるのではないかと思う。

 そして、「考え、議論する道徳」に不可欠な要素となるのは言葉の教育だ。人の心は読めない。言葉で表現しなければ、心の中で考えたり感じたりしたことは人には伝わらないものである。

 小学校学習指導要領では「言語活動の充実」を掲げている。その目的は「話し合いなどによって自分の心の中を言葉で表現し、文章に書き出すなどして、友達の考えを聞き、自分の考えを伝えるというプロセスを通じて、多様な感じ方・考え方に触れ、考えを深める」といった、言葉を活かした学習の充実だ。

 人は自分の知っている言葉でしか表現できない。例えば、何かを手に入れたいときに、幼稚園の頃は「これほしい」とか「これちょうだい」くらいの表現しかできないが、小学生になると「○○ください」とか「○○はありませんか?」と人に尋ねたり、「△△だから○○を買ってほしい」と理由をつけて要求したりすることもできるようになる。

 つまり、伝えたい気持ちがあっても、表現する言葉をたくさん知っているのと、あまり知らないのとでは、コミュニケーションに大きな差が出てくる。

乱れた日本語と若者の言葉遣い

 また、すでに筆者が学生の頃から嘆かれ続けてきた「日本語の乱れ」の問題がある。当時はもっぱら「若者の言葉遣い」が批判の対象だったが、その若者たちが大人になり、子育てをし、いつしか家族そろって乱れた言葉を日常的に、時・所を選ばず使用している。

 どのような場面でどのような言葉遣いを用いるのが適切か不適切かという判断はおろか、善悪の分別すら未熟な発達途上にある子供たちの耳に入る場所で、そういった粗雑な言葉遣いが交わされていることについて、筆者は「当時の若者」の一人として、お父さんお母さんに反省と改善を促したい。

 なぜ、きれいな言葉を使うべきか、というと、同じ意味の言葉でも、言葉遣いによって受け取る側に温度差が生じるからだ。きれいな言葉、丁寧な言葉というのは、日本人にとっていわば「共通言語」であり、自分の気持ちや考えを伝える上でより正確に、豊かな表現ができる。

 悪態をつきたい、悪ぶってみたいという子供たちの気持ちはよく分かるし、言葉遣いが悪い人でも人情味ある礼儀正しい人だってたくさんいる。

 だから百歩譲って、きれいな言葉遣いではないと理解した上で、「限定した場面で、故意に、あえて選択して使用する悪態」についてはスパイス的な要素として許容し、きれいな言葉を基本とし、乱れた言葉を日常的に使わないなどの緩やかなルールを家庭内で設けて、言葉を使い分けてみてはどうだろうか。言語活動を充実させるには、単純に学習によって語彙を増やすという作業と共に、家庭や地域社会、そしてマスコミの役割も大きい。

 いずれにせよ、道徳教育は一筋縄ではいかない。批判的な立場から見れば危うさばかりが目に付くかもしれない。しかし、人は誰しも失敗の中から学ぶことがたくさんある。そんな簡単に物事は順調に進まないものだ。

 大切なのは、試みの中で生じた齟齬にいち早く気づき、それに対応すること。特に子供たちの心の動きには細心の注意と配慮、ケアがあってほしいし、いじめにつながるような事態は絶対にあってはならないと切に願う。

 また、お父さん、お母さんたちにももっと道徳教育に関心を持ってほしい。今回、筆者がお邪魔した公開講座は、土曜日ということもあり授業を参観するお父さんの姿やご夫婦での来校も多かったが、ワークショップに参加した人の数は全児童数の5%にも満たない。

 新しい道徳がどのような理念と目的で実践され、どういった教育論で行われているのかを把握、理解することで、家庭における親としての役割がより具体的に見えてくるのではないだろうか。ぜひとも、この「考え、議論する道徳」を意義あるものにしてほしい。

©産経デジタル iRONNA 執筆者(文・取材:小西寛子(声優、シンガーソングライター)*産経デジタル iRONNAサイト閉鎖のため、小西寛子執筆記事のアーカイブはこちらからお読みいただけます。
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